【俺の名はコブラ!】手書きイラスト描きました | 日々平凡な、雑記帳
若さまで
RUN RUN RUNAWAY さあレースを
心まま走れよレースを また会うさ
君の名は聞いてたさ
But too late 時は遅れて
待ちに待った 夜明けが来てもこの街じゃ
ハートも沈む I Love You
遠い夜 そんな昔
あいつ トゥルース・ベイブ 叫んだ声は
都会の胸につきささる ハートは赤く
JIMMY DEAN
RUN RUN RUNA さあレースを
熱烈にあいつはレースを Oh!
ヤフーショッピング店のコブラ(1)/寺沢武一,出崎統,竹内啓雄,野沢那智(コブラ) ..
フォードから送られてきた1963年のレーシング戦績一覧。これにも発行した社名はなく「COBRA powered by Ford」とあるのみ。1月のリバーサイドはコブラにとって初の勝利で、その後もセブリング、ルマン、ワトキンスグレン、リバーサイドなど多くの勝利を重ねている。
上の3点は1963年11月になって初めて生産された、右ハンドルの289cid(4736cc)280ps/5800rpm、38.6kg-m/4500rpmエンジンを積んだMark II。英国のAC Cars社で発行されたカタログで車名は「AC COBRA」となっている。フェンダーサイドにルーバーが付けられているが、これはAC Cars社で組み立てた130台目から追加されたもので、1963年4月に100台目を生産していることから、ヨーロッパ仕様はすべてルーバー付きで出荷されたであろう。なお、1963年の途中でステアリングがラック&ピニオン式に変更されている。
君の名は…? 動物たちの名前や暮らしを知ろう。 救わなきゃ!と思ったら
「(Cobraを)買おう!・・・さもなければ走り抜ける(Cobraに)注目しよう!」のコピーと共に登場したShelby-AC Cobra最初のカタログ。表紙のクルマはプロトタイプでシャシー番号CSX2000、量産車との最大の違いはリアブレーキがインボード式のディスク(量産車はアウトボード式ディスク)であった。撮影場所はエンジン+TMを積み込んだ、カリフォルニア州サンタ フェ スプリングスの目玉マークでおなじみのディーン・ムーン・ショップ近くのゴルフ場。ドレスアップして立つ女性はキャロル・シェルビーの秘書。
上の2点はフォードが発行する顧客用の情報誌「Ford Times」1965年8月号に掲載された「Cobra 427」の記事。コブラの登場によって、素晴らしいスポーツカーはヨーロッパからやってくる、というスポーツカーファンたちの概念を打ち破った。そして、U.S.ロードレーシング・チャンピオンシップも過去2年獲得したし、GTカーのワールドチャンピオンシップも、前年はフェラーリを破る射程距離内に迫った。Cobra 427の登場によってワールドチャンピオンも夢ではなくなる。との思惑どおり1965年にはGTカーのワールド・マニュファクチャラー・チャンピオンとなっている。
多くの義勇兵たちが命を落とす中、コブラの機転によって窮地を脱するクイーンほか数名の義勇兵たち。
1966年にコイルスプリング仕様のシャシーを使ったヨーロッパ仕様のMkⅢが289cid(4736cc)V8 270ps/5800rpm、43.4kg-m/3400rpmエンジンを積んで27台(内R/H仕様は20台)生産された。テームズ・ディットンのAC工場でシャシーとボディーを組み立てたあと、ロサンゼルスのシェルビー・アメリカンでエンジン+ボルグワーナー製4速MTを積むのは同じだが、「Cobra」の名前はフォードの所有となっており「AC 289 Sports」の名前で販売された。オイルクーラー冷却用の空気取り入れ口はライセンスプレート取り付けのためにふさがれ、ブレーキ冷却用のスリットは室内へのフレッシュエア取り入れ口となった。そして、マグホイールはワイヤホイールに換装されている。
AC CobraのシャシーNo.は最初のアルファベットは北米向けがCSX、英国、ヨーロッパ向けはCOX、COB、CSB MAで、続く4桁の数字は2000番台がリーフスプリングシャシーで3000番台がコイルスプリングシャシーであった。
「COBRA(コブラ)」の名前を自身の開発したクルマに付けるのはキャロル・シェルビーの夢だった。レーシングドライバーであったキャロル・シェルビーが心臓に問題が見つかり、若くして引退したあと、欧州調のアメリカ製高性能スポーツカーを造ろうと決心し、調査研究した結果白羽の矢を立てたのが英国のACエースの車体にアメリカ製V8エンジンを移植することであった。最初はシボレーのスモールブロックV8を手に入れるべくGMと交渉したが失敗。次にフォードと交渉したところ、当時、フォードの副社長でフォード部門の総支配人であったリー・アイアコッカが、若年層の顧客を増やすべくフォードの若返りを図り「Total Performance」政策を推進している時期であり、絶好のタイミングで協力を得ることに成功した。エンジンの供給はもとより、車両開発のサポート、代金決済期間の延長、フォードのディーラーネットワークの活用などシェルビーはフォードの全面的なサポートを受けることとなった。そして、クルマの正式名称は「Shelby-AC Cobra powered by Ford」に決定した。
君はもうコブラにロックオンされている! クリスタルボーイ Tシャツ ..
1937年(昭和12年)東京生まれ。1956年に富士精密機械工業入社、開発業務に従事。1967年、合併した日産自動車の実験部に移籍。1970年にATテストでデトロイト~西海岸をクルマで1往復約1万キロを走破し、往路はシカゴ~サンタモニカまで当時は現役だった「ルート66」3800㎞を走破。1972年に海外サービス部に移り、海外代理店のマネージメント指導やノックダウン車両のチューニングに携わる。1986年~97年の間、カルソニック(現カルソニック・カンセイ)の海外事業部に移籍、うち3年間シンガポールに駐在。現在はRJC(日本自動車研究者ジャーナリスト会議)および米国SAH(The Society of Automotive Historians, Inc.)のメンバー。1954年から世界の自動車カタログの蒐集を始め、日本屈指のコレクターとして名を馳せる。著書に『プリンス 日本の自動車史に偉大な足跡を残したメーカー』『三菱自動車 航空技術者たちが基礎を築いたメーカー』『ロータリーエンジン車 マツダを中心としたロータリーエンジン搭載モデルの系譜』(いずれも三樹書房)。そのほか、「モーターファン別冊すべてシリーズ」(三栄書房)などに多数寄稿。